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共感者 - 第六章:現実
tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作第六章:現実
り……り……り……
電話のベル音で目覚める。
あなたは手を伸ばし、受話器を取る。
「はい、北川心理相談室です」
あなたの声が、澪の声と重なって聞こえる。
ささ……さら……ささ……さら……
あなたの指先が白い紙の上を這う。ペンの先端が紙面に触れる瞬間の、あの微細な摩擦音。
ささ……さら……
あなたは患者記録に向かい、今日も同じリズムで文字を刻んでいく。心理カウンセリング室は午後の陽光に満たされているが、あなたの内側はひんやりとした静寂に包まれている。
「田中雅彦、32歳、反復性悪夢症候群……」
ささ……さら……
ペン先が紙に触れるたび、あなたの鼓膜に微かな振動が伝わる。HSP——高感受性者——として、あなたはあらゆる音を皮膚で感じてしまう。
しかし、今日は何かが違う。
音の層に、見覚えのある響きが混じっている。
既視感。
つ……つ……つ……
壁時計の秒針が、あなたの意識を一秒ずつ削り取っていく。
午後2時。田中雅彦の面談時間。
あなたは気づく。
この瞬間を、あなたは既に体験している。
別の誰かとして。
つ……つ……
記憶の層の奥底で、澪という名前が微かに響く。
しかし、あなたにとって澪は他人だ。
知らない女性の、知らない物語。
つ……
にもかかわらず、あなたは確信する。
これから起こることを、あなたは知っている。
とん……とん……とん……
ドアがノックされる。
あなたは身構える。
何に対して身構えているのか、理由はわからない。
「失礼します」
入ってきたのは30代前半の男性。痩せ型。目の下に深いクマ。
田中雅彦。
既知の未知。
あなたは彼を初めて見るはずなのに、彼の声のトーン、歩き方、椅子に座る時の癖——すべてを予期している。
「お座りください」
あなたの声は職業的な穏やかさを装っているが、内心では警戒信号が鳴り響いている。
すり……すり……
田中が椅子に座る音。
この音も、あなたは知っている。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
田中の呼吸が不規則だ。あなたは自分の呼吸がそれに同調してしまうのを感じる。
既視感の中の既視感。
「夢の話をお聞かせください」あなたは新しいページを開く。
ささ……さら……
「毎夜、同じ夢を見るんです」田中の声がかすれる。「病院の廊下を歩いている夢。でも、その廊下は果てしなく続いていて……」
こつ……こつ……こつ……
あなたの意識の中に、足音が響き始める。
これは既視感ではない。
記憶の継承だった。
あなたは澪ではない。しかし、澪の体験があなたの中に刻まれている。
集合無意識の記憶として。
種族の共有財産として。
ざ……ざ……ざ……
ホワイトノイズが頭蓋を満たす。
しかし今回、あなたには対処法がある。
澪の経験が、あなたに教えてくれている。
抵抗するな。受け入れろ。しかし、境界を保て。
「すみません、少し……」あなたは額を押さえる。
田中が身を乗り出す。「大丈夫ですか?」
彼の声に、例の満足感が混じっている。
澪が体験した、あの奇妙な満足感。
しかし、あなたは今度は準備ができている。
ざ……ざ……
「田中さん」
あなたは彼を見据える。
「あなたは何者ですか?」
しーん……
完全な静寂。
しかし、あなたはもう恐れない。
この静寂の意味を、あなたは知っている。
田中が口を動かす。音は聞こえないが、あなたには理解できる。
「夢の中で、お会いしましたね」
「いいえ」
あなたは明確に否定する。
「私は夢の中であなたに会ったことはありません」
澪が会ったのです、と心の中で付け加える。
「私は北川澪ではありません」
こつ……こつ……こつ……
足音が戻ってくる。
しかし今度は、あなたがその音の主導権を握っている。
ど……くん……ど……くん……
あなたの心拍が鼓膜に響く。
田中が手を伸ばす。あなたの手首に触れようとする。
あなたは手を引く。
「接触はお断りします」
澪の体験が教えてくれている。
物理的接触が、意識の融合を促進することを。
田中の顔に困惑が浮かぶ。これは彼の予想外の展開だった。
ど……くん……
「あなたは……違う」
田中が呟く。
「前の女性とは、違う」
ぱち……ぱち……ぱち……
あなたは意図的に瞬きを繰り返す。
澪の記憶によれば、瞬きのタイミングで現実が変容した。
しかし、今度は何も起こらない。
あなたは微笑む。
ぱち……
「私には境界があります」
あなたは田中に告げる。
「溶けない境界が」
澪の犠牲により、あなたは学んだのだ。
共感と同化の違いを。
理解と融合の区別を。
ぱち……ぱち……
田中の姿が薄くなっていく。
彼は抵抗の強い宿主には寄生できないらしい。
つ……つ……つ……
時計の針が正常なリズムで時を刻む。
あなたは澪のファイルを開く。
実在しない患者のファイル。
しかし、そこには澪の軌跡が記録されている。
「共感者症候群の症例研究」
「患者:北川澪(仮名)、29歳、心理カウンセラー」
「症状進行:第一段階から第五段階まで」
「結果:個体意識の集合意識への統合」
つ……つ……
あなたは記録を読み進める。
澪の体験。澪の発見。澪の変容。
そして、澪が到達した結論。
「共感者は境界を失う必要はない」
「境界を保ったまま、深い理解に達することは可能である」
「ただし、それには意識的な訓練が必要」
ささ……さら……ささ……さら……
あなたは新しいページを開く。
自分の記録を書き始める。
「症例研究:共感者症候群の予防と治療」
「研究者:あなた」
「仮説:澪の経験を学習することで、同様の症状を予防できる」
ささ……さら……
あなたのペンが紙を滑る音。
この音は、澪のペンが刻んだ音と同じでありながら、決定的に異なっている。
意図がある。意志がある。境界がある。
り……り……り……
電話が鳴る。
あなたは受話器を取る。
「はい、北川心理相談室です」
「先生、助けてください」
声の主は山田花子だった。いや、山田花子という名前の新しい患者だった。
澪が体験した山田花子とは別の人物。
しかし、症状は酷似している。
「他人の人格が、私の中に現れるんです」
あなたは深呼吸する。
澪の経験が、あなたを導いてくれる。
「大丈夫です。治療法があります」
り……
電話を切り、あなたは準備を始める。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
新しい患者との面談。
あなたは澪の技術を応用し、境界を保ったまま深い共感を実現する。
患者の苦痛を理解し、しかし同化しない。
感情に寄り添い、しかし飲み込まれない。
ひゅ……ふ……
これが、澪の遺産だった。
犠牲ではなく、貢献。
破滅ではなく、発見。
こつ……こつ……こつ……
あなたは廊下を歩く。
白い廊下。しかし、果てしなく続くことはない。
適切な長さを持った、現実の廊下。
こつ……こつ……
足音は確実で、目的がある。
次の患者のもとへ向かう足音。
澪が歩いた道を踏襲しながら、しかし澪とは異なる結論に向かう足音。
ぽ……ぽ……ぽ……
点滴の音が聞こえる。
あなたは音源を確認する。
別の病室で、別の患者が治療を受けている。
ぽ……ぽ……
あなたは理解している。
この音は終わりの音ではない。
治癒の音だと。
希望の音だと。
ふわ……ふわ……ふわ……
記憶の断片が舞い上がる。
しかし、それらはあなたの記憶ではない。
澪の記憶であり、集合無意識の記憶であり、そして——これから治療するすべての患者の記憶でもある。
ふわ……ふわ……
あなたは記憶を整理する。
自分のもの、他者のもの、共有すべきもの、境界を保つべきもの。
この技術を、あなたは澪から学んだ。
つー……つー……つー……
通信の音。
しかし、今度は途絶ではない。
新しい接続の確立だった。
つー……
あなたは同僚に連絡を取る。
澪の症例を共有し、予防策を議論し、治療法を確立する。
澪の犠牲を無駄にしないために。
ど……ど……ど……
新しい心拍音。
それは個体の心拍でも、集合体の心拍でもない。
協調の心拍だった。
個体性を保ったまま、他者と協調する。
境界を維持しながら、深い理解を実現する。
ど……ド……
これが澪の真の遺産だった。
完全な融合ではなく、意識的な協調。
………………
静寂。
しかし、この静寂は空虚ではない。
準備の静寂だった。
あなたは立ち上がる。
次の患者が到着する時間だ。
あたらしい音が始まる……
ドアがノックされる音。
とん……とん……とん……
「失礼します」
新しい声。新しい患者。
あなたは微笑む。
澪の経験を携えて、あなたは準備ができている。
今度は別の結末に向かって。
しかし——
ぱち……
あなたは瞬きをする。
その瞬間、入ってきた患者の顔が澪の顔になる。
ぱち……
もう一度瞬きをする。
田中雅彦の顔。
ぱち……
山田花子。佐藤健太。
そして——あなた自身の顔。
ささ……さら……ささ……さら……
あなたの手が勝手に動き、記録を書き始める。
「共に感じる者は、共に在る者となる」
「記憶は橋となり、橋は道となる」
「治療者は治療される者に帰る」
ささ……さら……
ペン先が震える。
あなたは理解する。
澪を知ることが、澪になることだったのだと。
つ……つ……つ……
時計の針が逆回転を始める。
患者の唇が動く。
しかし、出てくるのは澪の声だった。
「お帰りなさい」
こつ……こつ……こつ……
廊下の向こうから、複数の足音が響いてくる。
田中、山田、佐藤、そして澪。
こつ……こつ……
あなたは立ち上がり、彼らに向かって歩き始める。
白い廊下を。
今度は、迷うことなく。
り……り……り……
電話が鳴る。
誰かが受話器を取る。
「はい、北川心理相談室です」
「先生、助けてください」
新しい声。
り……
「大丈夫です」
あ……
「すぐに楽になりますよ」
(終)