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共感者 - 第六章:現実

tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作
@神楽木アキ 25/07/2025

第六章:現実

り……り……り……

電話のベル音で目覚める。

あなたは手を伸ばし、受話器を取る。

「はい、北川心理相談室です」

あなたの声が、澪の声と重なって聞こえる。

ささ……さら……ささ……さら……

あなたの指先が白い紙の上を這う。ペンの先端が紙面に触れる瞬間の、あの微細な摩擦音。

ささ……さら……

あなたは患者記録に向かい、今日も同じリズムで文字を刻んでいく。心理カウンセリング室は午後の陽光に満たされているが、あなたの内側はひんやりとした静寂に包まれている。

「田中雅彦、32歳、反復性悪夢症候群……」

ささ……さら……

ペン先が紙に触れるたび、あなたの鼓膜に微かな振動が伝わる。HSP——高感受性者——として、あなたはあらゆる音を皮膚で感じてしまう。

しかし、今日は何かが違う。

音の層に、見覚えのある響きが混じっている。

既視感

つ……つ……つ……

壁時計の秒針が、あなたの意識を一秒ずつ削り取っていく。

午後2時。田中雅彦の面談時間。

あなたは気づく。

この瞬間を、あなたは既に体験している。

別の誰かとして。

つ……つ……

記憶の層の奥底で、澪という名前が微かに響く。

しかし、あなたにとって澪は他人だ。

知らない女性の、知らない物語。

つ……

にもかかわらず、あなたは確信する。

これから起こることを、あなたは知っている。

とん……とん……とん……

ドアがノックされる。

あなたは身構える。

何に対して身構えているのか、理由はわからない。

「失礼します」

入ってきたのは30代前半の男性。痩せ型。目の下に深いクマ。

田中雅彦。

既知の未知

あなたは彼を初めて見るはずなのに、彼の声のトーン、歩き方、椅子に座る時の癖——すべてを予期している。

「お座りください」

あなたの声は職業的な穏やかさを装っているが、内心では警戒信号が鳴り響いている。

すり……すり……

田中が椅子に座る音。

この音も、あなたは知っている。

ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……

田中の呼吸が不規則だ。あなたは自分の呼吸がそれに同調してしまうのを感じる。

既視感の中の既視感

「夢の話をお聞かせください」あなたは新しいページを開く。

ささ……さら……

「毎夜、同じ夢を見るんです」田中の声がかすれる。「病院の廊下を歩いている夢。でも、その廊下は果てしなく続いていて……」

こつ……こつ……こつ……

あなたの意識の中に、足音が響き始める。

これは既視感ではない。

記憶の継承だった。

あなたは澪ではない。しかし、澪の体験があなたの中に刻まれている。

集合無意識の記憶として。

種族の共有財産として。

ざ……ざ……ざ……

ホワイトノイズが頭蓋を満たす。

しかし今回、あなたには対処法がある。

澪の経験が、あなたに教えてくれている。

抵抗するな。受け入れろ。しかし、境界を保て。

「すみません、少し……」あなたは額を押さえる。

田中が身を乗り出す。「大丈夫ですか?」

彼の声に、例の満足感が混じっている。

澪が体験した、あの奇妙な満足感。

しかし、あなたは今度は準備ができている。

ざ……ざ……

「田中さん」

あなたは彼を見据える。

「あなたは何者ですか?」

しーん……

完全な静寂。

しかし、あなたはもう恐れない。

この静寂の意味を、あなたは知っている。

田中が口を動かす。音は聞こえないが、あなたには理解できる。

「夢の中で、お会いしましたね」

「いいえ」

あなたは明確に否定する。

「私は夢の中であなたに会ったことはありません」

澪が会ったのです、と心の中で付け加える。

「私は北川澪ではありません」

こつ……こつ……こつ……

足音が戻ってくる。

しかし今度は、あなたがその音の主導権を握っている。

ど……くん……ど……くん……

あなたの心拍が鼓膜に響く。

田中が手を伸ばす。あなたの手首に触れようとする。

あなたは手を引く。

「接触はお断りします」

澪の体験が教えてくれている。

物理的接触が、意識の融合を促進することを。

田中の顔に困惑が浮かぶ。これは彼の予想外の展開だった。

ど……くん……

「あなたは……違う」

田中が呟く。

「前の女性とは、違う」

ぱち……ぱち……ぱち……

あなたは意図的に瞬きを繰り返す。

澪の記憶によれば、瞬きのタイミングで現実が変容した。

しかし、今度は何も起こらない。

あなたは微笑む。

ぱち……

「私には境界があります」

あなたは田中に告げる。

「溶けない境界が」

澪の犠牲により、あなたは学んだのだ。

共感と同化の違いを。

理解と融合の区別を。

ぱち……ぱち……

田中の姿が薄くなっていく。

彼は抵抗の強い宿主には寄生できないらしい。

つ……つ……つ……

時計の針が正常なリズムで時を刻む。

あなたは澪のファイルを開く。

実在しない患者のファイル。

しかし、そこには澪の軌跡が記録されている。

「共感者症候群の症例研究」

「患者:北川澪(仮名)、29歳、心理カウンセラー」

「症状進行:第一段階から第五段階まで」

「結果:個体意識の集合意識への統合」

つ……つ……

あなたは記録を読み進める。

澪の体験。澪の発見。澪の変容。

そして、澪が到達した結論。

「共感者は境界を失う必要はない」

「境界を保ったまま、深い理解に達することは可能である」

「ただし、それには意識的な訓練が必要」

ささ……さら……ささ……さら……

あなたは新しいページを開く。

自分の記録を書き始める。

「症例研究:共感者症候群の予防と治療」

「研究者:あなた」

「仮説:澪の経験を学習することで、同様の症状を予防できる」

ささ……さら……

あなたのペンが紙を滑る音。

この音は、澪のペンが刻んだ音と同じでありながら、決定的に異なっている。

意図がある。意志がある。境界がある。

り……り……り……

電話が鳴る。

あなたは受話器を取る。

「はい、北川心理相談室です」

「先生、助けてください」

声の主は山田花子だった。いや、山田花子という名前の新しい患者だった。

澪が体験した山田花子とは別の人物。

しかし、症状は酷似している。

「他人の人格が、私の中に現れるんです」

あなたは深呼吸する。

澪の経験が、あなたを導いてくれる。

「大丈夫です。治療法があります」

り……

電話を切り、あなたは準備を始める。

ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……

新しい患者との面談。

あなたは澪の技術を応用し、境界を保ったまま深い共感を実現する。

患者の苦痛を理解し、しかし同化しない。

感情に寄り添い、しかし飲み込まれない。

ひゅ……ふ……

これが、澪の遺産だった。

犠牲ではなく、貢献。

破滅ではなく、発見。

こつ……こつ……こつ……

あなたは廊下を歩く。

白い廊下。しかし、果てしなく続くことはない。

適切な長さを持った、現実の廊下。

こつ……こつ……

足音は確実で、目的がある。

次の患者のもとへ向かう足音。

澪が歩いた道を踏襲しながら、しかし澪とは異なる結論に向かう足音。

ぽ……ぽ……ぽ……

点滴の音が聞こえる。

あなたは音源を確認する。

別の病室で、別の患者が治療を受けている。

ぽ……ぽ……

あなたは理解している。

この音は終わりの音ではない。

治癒の音だと。

希望の音だと。

ふわ……ふわ……ふわ……

記憶の断片が舞い上がる。

しかし、それらはあなたの記憶ではない。

澪の記憶であり、集合無意識の記憶であり、そして——これから治療するすべての患者の記憶でもある。

ふわ……ふわ……

あなたは記憶を整理する。

自分のもの、他者のもの、共有すべきもの、境界を保つべきもの。

この技術を、あなたは澪から学んだ。

つー……つー……つー……

通信の音。

しかし、今度は途絶ではない。

新しい接続の確立だった。

つー……

あなたは同僚に連絡を取る。

澪の症例を共有し、予防策を議論し、治療法を確立する。

澪の犠牲を無駄にしないために。

ど……ど……ど……

新しい心拍音。

それは個体の心拍でも、集合体の心拍でもない。

協調の心拍だった。

個体性を保ったまま、他者と協調する。

境界を維持しながら、深い理解を実現する。

ど……ド……

これが澪の真の遺産だった。

完全な融合ではなく、意識的な協調。

………………

静寂。

しかし、この静寂は空虚ではない。

準備の静寂だった。

あなたは立ち上がる。

次の患者が到着する時間だ。

あたらしい音が始まる……

ドアがノックされる音。

とん……とん……とん……

「失礼します」

新しい声。新しい患者。

あなたは微笑む。

澪の経験を携えて、あなたは準備ができている。

今度は別の結末に向かって。

しかし——

ぱち……

あなたは瞬きをする。

その瞬間、入ってきた患者の顔が澪の顔になる。

ぱち……

もう一度瞬きをする。

田中雅彦の顔。

ぱち……

山田花子。佐藤健太。

そして——あなた自身の顔。

ささ……さら……ささ……さら……

あなたの手が勝手に動き、記録を書き始める。

「共に感じる者は、共に在る者となる」

「記憶は橋となり、橋は道となる」

「治療者は治療される者に帰る」

ささ……さら……

ペン先が震える。

あなたは理解する。

澪を知ることが、澪になることだったのだと。

つ……つ……つ……

時計の針が逆回転を始める。

患者の唇が動く。

しかし、出てくるのは澪の声だった。

「お帰りなさい」

こつ……こつ……こつ……

廊下の向こうから、複数の足音が響いてくる。

田中、山田、佐藤、そして澪。

こつ……こつ……

あなたは立ち上がり、彼らに向かって歩き始める。

白い廊下を。

今度は、迷うことなく。

り……り……り……

電話が鳴る。

誰かが受話器を取る。

「はい、北川心理相談室です」

「先生、助けてください」

新しい声。

り……

「大丈夫です」

あ……

「すぐに楽になりますよ」

(終)