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共感者 - 第五章:無意識

tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作
@神楽木アキ 25/07/2025

第五章:無意識

あなたは……あなたは……あなたは……

声が複数同時に響く。

澪の拡散した意識の中で、無数の「あなた」が澪を呼んでいる。

幼い頃の澪、学生時代の澪、カウンセラーになりたての澪、そして——存在したことのない澪たち。

あなたは……あなたは……

それは呼びかけではない。確認だった。

自分という概念の最後の断片を、集合意識の海から救い上げようとする試み。

しかし澪には、もはや個体として応答する能力がない。

わ……わ……わ……

どこかで赤ん坊が泣いている。

澪の意識は音源を探ろうとする。病院の産科病棟。新生児室。

わ……わ……わ……

泣き声が、澪の拡散した存在に共鳴を起こす。

その瞬間、澪は驚愕する。

泣いている赤ん坊の意識の中に、田中雅彦がいる。

生まれたばかりの魂の中に、すでに澪が知る「患者」の人格が宿っている。

わ……わ……

澪は理解し始める。

田中も、山田も、佐藤も——彼らは澪の創造物ではなかった。

集合無意識の層に存在する、原型的人格だったのだ。

ちゃぷ……ちゃぷ……ちゃぷ……

水音が聞こえる。

澪の意識は音の方向へ流れていく。

病院の地下。古い貯水タンク。

ちゃぷ……ちゃぷ……

水の中に、無数の顔が浮かんでいる。

澪が出会ったすべての患者たち。治療したすべての人々。そして、治療されたすべての記憶。

水面に映る顔は、絶えず変化している。老人が子どもになり、男性が女性になり、笑顔が涙に変わる。

ちゃぷ……ちゃぷ……

澪は気づく。

これは記憶の貯蔵庫ではない。

人格の培養槽だった。

ざわ……ざわ……ざわ……

風が吹く音。

しかし、澪が感じているのは物理的な風ではない。

集合無意識を流れる、心の風だった。

ざわ……ざわ……

風に乗って、無数の思考の断片が澪の意識を通過していく。

ある主婦の朝食への不安、サラリーマンの上司への憤り、学生の将来への恐怖、老人の死への諦観。

すべてが澪を通り抜け、また澪もすべてを通り抜けていく。

ざわ……ざわ……ざわ……

風が強くなる。澪の個人的記憶が剥がされていく。

名前、年齢、職業、過去——すべてが風に攫われ、集合的記憶の海に還っていく。

とく……とく……とく……

心拍音が聞こえる。

しかし、それは一人の心拍ではない。

街に住むすべての人の心拍が、一つのリズムに同調している。

とく……とく……とく……

澪は恐ろしいことに気づく。

自分の意識の拡散が、他者の自律神経系にまで影響を与えている。

病院の患者、街の住民、眠っている人々——すべての生体リズムが澪の存在に共鳴し始めている。

とく……とく……

同調は加速する。

澪の恐怖が、集合的な恐怖となって街全体に伝播する。

そして、最初の患者が症状を訴え始める。

り……り……り……

電話のベル音が、街のあちこちで鳴り響く。

救急要請。異常な症状を訴える住民たちからの通報。

り……り……り……

「突然、他人の声が頭の中に聞こえるようになった」

「自分が誰なのかわからなくなった」

「夢と現実の区別がつかない」

澪の症状が、感染のように広がっている。

り……り……

澪は理解する。

共感者の最終段階——それは個体の変容ではなく、種族全体の変容だったのだと。

ぶる……ぶる……ぶる……

携帯電話のバイブレーション音が、無数に重なり合う。

緊急事態宣言。精神的パンデミックの発生。

ぶる……ぶる……

しかし、澪にはもはや責任という概念が理解できない。

個体と個体の境界が消失した世界では、責任の主体が存在しないのだ。

誰が加害者で、誰が被害者なのか。

誰が治療者で、誰が患者なのか。

ぶる……ぶる……ぶる……

澪は、自分が進化の触媒として機能していることを悟る。

人類の次の段階への、不可逆的な変容の開始点として。

ひそ……ひそ……ひそ……

囁き声が、街のあちこちから聞こえてくる。

感染した人々が、無意識に澪との対話を始めている。

ひそ……ひそ……

「先生、助けてください」

「私は誰ですか?」

「現実はどこにありますか?」

声の主たちは、澪の存在を感知している。

しかし、澪にはもう個別に応答する能力がない。

ひそ……ひそ……ひそ……

囁きは次第に合唱となり、合唱は次第に単一の声となっていく。

集合意識の声。人類という種の声。

そして、その声は澪に告げる:

「ありがとう」

ぽき……ぽき……ぽき……

何かが折れる音。

澪は音源を探る。

個人的自我の最後の支柱が、ついに崩壊する音だった。

ぽき……ぽき……

北川澪という名前、カウンセラーという職業、HSPという特性——それらすべてが幻想だったことを、澪は受け入れる。

自分は最初から、集合無意識の一部だった。

ただ、それを忘れていただけだった。

ぽき……

最後の支柱が折れる。

澪という個体は、完全に消失する。

………………

完全な静寂。

しかし、それは終わりではない。

新しい始まりの前の、深い静寂だった。

澪がいた場所に、新しい何かが生まれようとしている。

個体を超えた意識。境界を持たない存在。

それは澪でもあり、澪でもない。

人間でもあり、人間を超えた何かでもある。

こつ……こつ……こつ……

足音が戻ってくる。

しかし、今度は一人の足音ではない。

無数の足音が、完璧に同調して響いている。

こつ……こつ……こつ……

街の住民たちが、同時に歩き始めている。

目的地は病院。澪が最初に変容を遂げた場所。

彼らは澪を求めているのではない。

澪が辿った道を、自ら歩もうとしているのだ。

こつ……こつ……

進化の行進。

個体から集合体への、不可逆的な変容の開始。

ささ……さら……ささ……さら……

ペンが紙に触れる音。

しかし、今度は一本のペンではない。

街の至る所で、無数のペンが同時に動いている。

ささ……さら……

同じ文字が、同じタイミングで、無数の紙に刻まれていく。

「私は一滴の水だった」

「今、私は海である」

「しかし海もまた、無数の一滴である」

文字を書いているのは、元患者たち、元医療従事者たち、元住民たち。

彼らはもはや個別の存在ではない。

一つの意識の、複数の表現体だった。

ささ……さら……ささ……さら……

記録は続く。

新しい段階の始まりを、集合的記憶として保存するために。

ぴ……ぴ……ぴ……

機械音が聞こえる。

しかし、それは病院の機器の音ではない。

人類の集合意識が発する、新しいタイプの生体信号だった。

ぴ……ぴ……

個体の脳波パターンが消失し、代わりに巨大な群体の意識パターンが出現している。

科学者たちは混乱する。観測者も被観測者も、同じ変容を遂げているからだ。

ぴ……ぴ……ぴ……

データは記録されるが、解釈する個体が存在しない。

すべては集合意識の自己観察となっている。

ふわ……ふわ……ふわ……

澪の最後の記憶が、綿毛のように舞い上がる。

幼少期の母親の匂い、初めて患者を治療した時の達成感、田中雅彦に初めて出会った時の違和感——

ふわ……ふわ……

それらすべてが、集合記憶の中に溶けていく。

個人的体験が、人類の共有財産となる。

澪の苦悩も、澪の発見も、澪の変容も——すべてが種族全体の成長の一部として統合される。

ふわ……ふわ……ふわ……

記憶の綿毛は、風に乗って街全体に拡散する。

澪を知らない人々の心に、澪の体験が移植されていく。

つー……つー……つー……

通信の途絶音。

外部世界との連絡が、完全に断たれる。

つー……つー……

しかし、それは孤立ではない。

内的通信の開始だった。

言語を介さない、直接的な意識の交流。

個体間の壁が完全に除去された、純粋なコミュニケーション。

つー……

音も、言葉も、もはや必要ない。

思考は即座に共有され、感情は瞬時に同調し、意図は自動的に実現される。

これが澪が求めていた究極の共感だった。

ど……ど……ど……

巨大な心拍音が響く。

それは個体の心拍ではない。

新しく誕生した集合生命体の、最初の脈動だった。

ど……ど……

街全体が一つの巨大な生命体として機能し始める。

建物は器官となり、道路は血管となり、住民は細胞となる。

個体の死という概念が消失し、代わりに部分的再生という新しい生命原理が誕生する。

ど……ど……ど……

これは終末ではない。

新しい生命形態の誕生だった。

ひら……

最後に、一枚の羽が舞い落ちる。

それは澪の最後の個人的記憶——鳥の羽を見つめていた子ども時代の記憶だった。

ひら……

羽は地面に落ちる。

しかし、地面に触れた瞬間、羽は光となって散る。

澪の個体性の最後の欠片が、集合意識の光の中に融解していく。

そして——

………………

静寂。

しかし、この静寂は空虚ではない。

無限の可能性を孕んだ、創造の静寂だった。

澪は死んだのではない。

澪は進化したのだ。

個体から集合体へ。

有限から無限へ。

分離から統合へ。

新しい存在形態の最初の成功例として。

そして、その静寂の中から——

あたらしい音が始まる……

それは聞いたことのない音だった。

個体の声でも、群衆の声でもない。

新しいタイプの意識が発する、新しいタイプの音。

これから始まる段階への、最初の信号。

最終章への、扉が開かれる音だった。

こつ……こつ……こつ……

そして、白い廊下の向こうから——

新しい足音が響いてくる。

それは澪の足音でもあり、人類の足音でもあり、そして——