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共感者 - 第四章:改変
tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作第四章:改変
ぽ……ぽ……ぽ……
液体が滴る音。
澪の意識が浮上するとき、最初に聞こえるのはその音だった。
点滴。病院のベッド。白い天井。
ぽ……ぽ……ぽ……
澪は自分が患者として横たわっていることに気づく。腕に刺された針から、透明な液体が血管に流れ込んでいる。
「お目覚めですね」
声の主を探して首を動かす。白衣を着た医師が立っている。その顔は——
田中雅彦だった。
「私が主治医の田中です」
澪は声を出そうとする。しかし、声帯が麻痺したように機能しない。
ぽ……ぽ……ぽ……
点滴の音だけが、時間の経過を告げている。
かちゃ……かちゃ……かちゃ……
田中がカルテに何かを記入している。ペンが金属製のクリップボードに当たる音。
かちゃ……かちゃ……
「北川澪さん、29歳」田中が読み上げる。「職業:精神科医」
澪は混乱する。自分は心理カウンセラーだったはずだ。
「症状:現実認識障害、多重人格、妄想性障害」
かちゃ……かちゃ……
「入院期間:三年と四ヶ月」
澪の記憶に、その期間は存在しない。昨日まで、彼女は病院で働いていたはずだ。
田中が澪の枕元に近づく。
「あなたは病気なんです」
彼の声は優しく、しかし有無を言わせない確信に満ちている。
「カウンセラーとして働いていたという記憶は、すべて妄想です」
ひゅ……ひゅ……ひゅ……
澪の呼吸が浅くなる。
記憶を辿ろうとする。病院への通勤、患者との面談、カウンセリング室の光景。
しかし、それらの記憶が霧のように曖昧になっていく。
ひゅ……ひゅ……
「あなたは患者として、この病院に入院しています」田中が続ける。「私たちが治療しているんです」
澪は自分の手を見る。手首に、入院患者用のIDバンドが巻かれている。
「患者番号:0847 北川澪 精神科病棟D-3」
いつからそれが付いていたのか、澪には記憶がない。
か……た……か……た……
病室のドアが開く音。
看護師が入ってくる。その顔は山田花子だった。
「お薬の時間です」
山田の手に、小さな紙コップと錠剤がある。
かちゃ……
錠剤が紙コップの中で音を立てる。
「これを飲んでください」
澪は首を振る。しかし、身体は思うように動かない。
山田が澪の口に錠剤を入れる。水を飲ませる。
ごく……ごく……
液体が喉を通る音。苦い味が口の中に広がる。
「この薬で、妄想が治まります」山田が説明する。「現実と夢の区別がつくようになります」
しかし澪には、どちらが現実でどちらが妄想なのか、もはや判別がつかない。
ぶ……ぶ……ぶ……
薬の効果が現れ始める。
澪の意識がぼんやりとしてくる。思考が霧に包まれたようになる。
ぶ……ぶ……
血管を流れる薬物の音が、鼓膜に響く。
「楽になったでしょう?」田中の声が遠くから聞こえる。
澪は答えようとする。しかし、言葉が思い浮かばない。
記憶も、感情も、自我も、薬物の霧の中に溶けていく。
ぶ……ぶ……ぶ……
そして、澪は気づく。
この音は薬物の音ではない。
彼女の現実認識能力が、根本から書き換えられている音だった。
ぴ……ぴ……ぴ……
機械音が聞こえる。
澪は周囲を見回す。病室にはモニター類が設置されている。心電図、血圧計、脳波測定器。
ぴ……ぴ……
脳波測定器の画面に、澪の脳活動がリアルタイムで表示されている。
そして澪は驚愕する。
画面に映っているのは、一人分の脳波ではなかった。
複数の脳波パターンが、重なり合って表示されている。
田中の脳波、山田の脳波、佐藤の脳波、そして澪自身の脳波。
ぴ……ぴ……ぴ……
「興味深いでしょう?」
田中が画面を指差す。
「あなたの脳は、複数の人格を同時に生成している」
澪は画面を見つめる。確かに、四つの異なる脳波パターンが識別できる。
「しかし、それらの人格は実在しません」田中が説明する。「すべてあなたの想像の産物です」
ぴ……ぴ……
「田中雅彦も、山田花子も、佐藤健太も」
田中の声が、だんだん澪の声に変化していく。
「すべて、あなた自身なんです」
ざ……ざ……ざ……
澪の頭蓋に、ホワイトノイズが流れ込む。
しかし今回は、そのノイズに規則性がある。
ざ……ざ……ざ……
デジタル信号。データストリーム。
澪は理解し始める。
自分の現実認識が、外部から操作されている。
「誰が……」
澪は声を絞り出す。
「誰が私を操っているの?」
田中が微笑む。その笑顔は、澪が鏡で見る自分の笑顔と同じだった。
「あなた自身です」
つ……つ……つ……
時計の音が変化する。
通常の1秒間隔ではなく、不規則なリズムで刻まれている。
つ……つつ……つ……つつつ……
時間の流れが歪んでいる。
澪は気づく。自分が時間軸を操作していることに。
過去の記憶、現在の認識、未来の予測。それらが入り混じって、一つの現実を構成している。
つ……つつ……つ……
「四つ目の扉が開かれました」
田中の声が、澪の内側から囁く。
水が水でなくなる瞬間があるように、澪の指先に何かが宿っている。
ぶるぶる……ぶるぶる……
物質が澪の存在を感じ取って、怯えているかのような微細な震え。
点滴スタンドの金属が、ベッドの木材が、空気中の分子が——すべてが澪という存在に共鳴し始める。
ご……ご……ご……
澪の呼吸に合わせて、空気の密度が変化していく。
まるで彼女の肺が世界の肺であるかのように。
ご……ご……
重さという概念が、澪の感情の起伏に従って流動する。
恐怖が重力を、困惑が浮力を、そして深い孤独が——すべてを押し潰すような圧迫感を生み出している。
ぴき……ぴき……
病室の壁に、澪の心拍と同じリズムで亀裂が走る。
建物が澪の生体リズムに同調しようとして、しかし材質の限界により破綻していく。
ひゅ……ひゅ……ひゅ……
澪の息づかいが、存在の根源的なリズムと化していく。
ひゅ……ひゅ……
呼吸するたび、世界の輪郭が曖昧になる。
固体と液体の境界、過去と未来の境界、自己と他者の境界——すべてが澪の意識の潮汐に従って満ち引きを繰り返す。
澪は気づく。自分が探求していたものの正体に。
共感とは、境界を越えることではなく——境界そのものを消去することだったのだと。
ざざざ……ざざざ……
足元から、見えない波紋が同心円状に広がっていく。
それは音の波紋であり、意識の波紋であり、存在の波紋でもあった。
ばり……ばり……ばり……
澪の周囲の空気が、何かを帯び始める。
それは電荷ではなく、もっと根源的な何か。存在の密度。意識の濃度。
ばり……ばり……
空間そのものが澪という存在に耐えかねて、微細な亀裂を生じさせている。
現実と非現実の間に、極小の稲妻が走る。
澪は意識を内向させる。
ぐにゃり……
思考の軌跡に従って、部屋の幾何学が変容していく。
直線は思索の複雑さに比例して曲線となり、角は感情の鋭さに応じて鈍角になったり鋭角になったりする。
ぐにゃり……ぐにゃり……
澪が歩くと、歩行という行為の概念そのものが歪む。
移動とは空間を通過することではなく、空間を自分に適合するよう書き換えることだと気づく。
ぺた……ぺた……ぺた……
足音だけが、変化の中の不変として響き続ける。
それは澪の最後の錨——人間であったことの証明だった。
しーん……
澪は音という現象そのものを——無意識に——消去する。
しーん……
完全な静寂。しかしそれは音の不在ではない。
音の可能性すべてが、一点に収束した状態。
この静寂の中で、澪は恐ろしいことに気づく。
自分の存在確認が、他者からの感覚的反応に依存していたことを。
音のない世界では、澪は自分の境界を見失う。
しーん……
恐慌。
しかし、その恐慌すら音を発することができない。
澪の内側で無声の叫びが渦巻く。
「戻してください」
心の中の祈り。
「音のない私は、私ではない」
そして——
どーん……
巨大な音が世界を揺らす。
澪の恐怖が、音の洪水となって現実に流れ込む。
すべての音が一度に回帰する。
ぽぽぽ……かちゃかちゃ……ひゅひゅ……ぴぴぴ……ざざざ……つつつ……ごごご……ばりばり……
音の渦が澪を包み込む。
彼女は理解する。
自分が音の支配者になったことを。
現実の創造者になったことを。
ささ……さら……ささ……さら……
澪はペンを握る。
しかし、ペンは紙を求めない。空気そのものが彼女の記録媒体となっている。
ささ……さら……
光の軌跡が、思考の軌跡を辿って空間に浮かび上がる。
「境界が四度目の変容を遂げる」
文字ではなく、概念が直接空間に刻まれていく。
「感受する者は、感受される世界そのものとなる」
「物質は意識に従い、意識は存在の深淵に溶ける」
澪の手は、もはや彼女の意志に従っていない。
より大きな意志——あるいは無意志——に導かれて、真理を書き続ける。
「危険という概念は、分離を前提とする」
「統合された意識に、危険は存在しない」
「残されるのは、変容のみ」
ぽ……ぽ……ぽ……
点滴の音が、永遠の伴奏のように戻ってくる。
澪は再び病院のベッドにいる。
しかし——この病室は記憶の中の病室ではない。
壁の色が微妙に違う。天井の高さが心持ち低い。窓から見える景色が、わずかに左にずれている。
澪が歩いた思考の軌跡が、空間に刻印されていた。
ぽ……ぽ……
田中が現れる。今度の彼は、輪郭だけの存在だった。
光の糸で編まれた人型。声だけが実在する幻影。
「あなたは閾値を越えました」
その声は、澪の記憶の中の田中の声でもあり、同時に誰でもない声でもあった。
「戻る道は、もはや存在しません」
澪は鏡を探す。
そこに映るのは——光の輪郭線だけの自分。
肉体という概念を手放した、純粋な知覚の束。
それでも澪は、まだ澪だった。
ぽ……ぽ……ぽ……
点滴の音だけが、変化の中の不変として響き続ける。
最後に残った時間の錨として。
ひら……ひら……ひら……
澪の意識が、蒲公英の綿毛のように拡散していく。
ひら……ひら……
個体という制約を離れ、空間の隅々まで浸透していく。
病室の壁を透過し、廊下を満たし、建物全体を包み込む。
そして、街へ。世界へ。
ひら……ひら……ひら……
無数の心の鼓動が、澪の拡散した意識に触れてくる。
眠る者の夢、目覚めた者の思考、子どもの純真、老人の諦観。
すべてが澪の中に流れ込み、澪もすべての中に流れ込んでいく。
境界という概念の最後の痕跡が、風に散る。
そして澪は理解する。
自分が求めていたものの正体を。
完全なる共感。
一者と多者の、永遠の円環。
これが旅の終着点だった。
ささ……さら……ささ……さら……
誰の手でもない手が、誰の声でもない声で、最後の記録を刻む。
「私は一滴の水となって海に還った」
「しかし海もまた、私という一滴から成っている」
「終わりは始まりであり、始まりはすでに終わっていた」
音だけが残された世界で、新しい段階への扉が静かに開かれる。
こつ……こつ……こつ……
白い廊下の向こうから、すべての足音が一つになって響いてくる。
それは澪の足音であり、人類の足音であり、そして——
これから始まる者たちの足音でもあった。