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共感者 - 第四章:改変

tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作
@神楽木アキ 25/07/2025

第四章:改変

ぽ……ぽ……ぽ……

液体が滴る音。

澪の意識が浮上するとき、最初に聞こえるのはその音だった。

点滴。病院のベッド。白い天井。

ぽ……ぽ……ぽ……

澪は自分が患者として横たわっていることに気づく。腕に刺された針から、透明な液体が血管に流れ込んでいる。

「お目覚めですね」

声の主を探して首を動かす。白衣を着た医師が立っている。その顔は——

田中雅彦だった。

「私が主治医の田中です」

澪は声を出そうとする。しかし、声帯が麻痺したように機能しない。

ぽ……ぽ……ぽ……

点滴の音だけが、時間の経過を告げている。

かちゃ……かちゃ……かちゃ……

田中がカルテに何かを記入している。ペンが金属製のクリップボードに当たる音。

かちゃ……かちゃ……

「北川澪さん、29歳」田中が読み上げる。「職業:精神科医」

澪は混乱する。自分は心理カウンセラーだったはずだ。

「症状:現実認識障害、多重人格、妄想性障害」

かちゃ……かちゃ……

「入院期間:三年と四ヶ月」

澪の記憶に、その期間は存在しない。昨日まで、彼女は病院で働いていたはずだ。

田中が澪の枕元に近づく。

「あなたは病気なんです」

彼の声は優しく、しかし有無を言わせない確信に満ちている。

「カウンセラーとして働いていたという記憶は、すべて妄想です」

ひゅ……ひゅ……ひゅ……

澪の呼吸が浅くなる。

記憶を辿ろうとする。病院への通勤、患者との面談、カウンセリング室の光景。

しかし、それらの記憶が霧のように曖昧になっていく。

ひゅ……ひゅ……

「あなたは患者として、この病院に入院しています」田中が続ける。「私たちが治療しているんです」

澪は自分の手を見る。手首に、入院患者用のIDバンドが巻かれている。

「患者番号:0847 北川澪 精神科病棟D-3」

いつからそれが付いていたのか、澪には記憶がない。

か……た……か……た……

病室のドアが開く音。

看護師が入ってくる。その顔は山田花子だった。

「お薬の時間です」

山田の手に、小さな紙コップと錠剤がある。

かちゃ……

錠剤が紙コップの中で音を立てる。

「これを飲んでください」

澪は首を振る。しかし、身体は思うように動かない。

山田が澪の口に錠剤を入れる。水を飲ませる。

ごく……ごく……

液体が喉を通る音。苦い味が口の中に広がる。

「この薬で、妄想が治まります」山田が説明する。「現実と夢の区別がつくようになります」

しかし澪には、どちらが現実でどちらが妄想なのか、もはや判別がつかない。

ぶ……ぶ……ぶ……

薬の効果が現れ始める。

澪の意識がぼんやりとしてくる。思考が霧に包まれたようになる。

ぶ……ぶ……

血管を流れる薬物の音が、鼓膜に響く。

「楽になったでしょう?」田中の声が遠くから聞こえる。

澪は答えようとする。しかし、言葉が思い浮かばない。

記憶も、感情も、自我も、薬物の霧の中に溶けていく。

ぶ……ぶ……ぶ……

そして、澪は気づく。

この音は薬物の音ではない。

彼女の現実認識能力が、根本から書き換えられている音だった。

ぴ……ぴ……ぴ……

機械音が聞こえる。

澪は周囲を見回す。病室にはモニター類が設置されている。心電図、血圧計、脳波測定器。

ぴ……ぴ……

脳波測定器の画面に、澪の脳活動がリアルタイムで表示されている。

そして澪は驚愕する。

画面に映っているのは、一人分の脳波ではなかった。

複数の脳波パターンが、重なり合って表示されている。

田中の脳波、山田の脳波、佐藤の脳波、そして澪自身の脳波。

ぴ……ぴ……ぴ……

「興味深いでしょう?」

田中が画面を指差す。

「あなたの脳は、複数の人格を同時に生成している」

澪は画面を見つめる。確かに、四つの異なる脳波パターンが識別できる。

「しかし、それらの人格は実在しません」田中が説明する。「すべてあなたの想像の産物です」

ぴ……ぴ……

「田中雅彦も、山田花子も、佐藤健太も」

田中の声が、だんだん澪の声に変化していく。

「すべて、あなた自身なんです」

ざ……ざ……ざ……

澪の頭蓋に、ホワイトノイズが流れ込む。

しかし今回は、そのノイズに規則性がある。

ざ……ざ……ざ……

デジタル信号。データストリーム。

澪は理解し始める。

自分の現実認識が、外部から操作されている。

「誰が……」

澪は声を絞り出す。

「誰が私を操っているの?」

田中が微笑む。その笑顔は、澪が鏡で見る自分の笑顔と同じだった。

「あなた自身です」

つ……つ……つ……

時計の音が変化する。

通常の1秒間隔ではなく、不規則なリズムで刻まれている。

つ……つつ……つ……つつつ……

時間の流れが歪んでいる。

澪は気づく。自分が時間軸を操作していることに。

過去の記憶、現在の認識、未来の予測。それらが入り混じって、一つの現実を構成している。

つ……つつ……つ……

「四つ目の扉が開かれました」

田中の声が、澪の内側から囁く。

水が水でなくなる瞬間があるように、澪の指先に何かが宿っている。

ぶるぶる……ぶるぶる……

物質が澪の存在を感じ取って、怯えているかのような微細な震え。

点滴スタンドの金属が、ベッドの木材が、空気中の分子が——すべてが澪という存在に共鳴し始める。

ご……ご……ご……

澪の呼吸に合わせて、空気の密度が変化していく。

まるで彼女の肺が世界の肺であるかのように。

ご……ご……

重さという概念が、澪の感情の起伏に従って流動する。

恐怖が重力を、困惑が浮力を、そして深い孤独が——すべてを押し潰すような圧迫感を生み出している。

ぴき……ぴき……

病室の壁に、澪の心拍と同じリズムで亀裂が走る。

建物が澪の生体リズムに同調しようとして、しかし材質の限界により破綻していく。

ひゅ……ひゅ……ひゅ……

澪の息づかいが、存在の根源的なリズムと化していく。

ひゅ……ひゅ……

呼吸するたび、世界の輪郭が曖昧になる。

固体と液体の境界、過去と未来の境界、自己と他者の境界——すべてが澪の意識の潮汐に従って満ち引きを繰り返す。

澪は気づく。自分が探求していたものの正体に。

共感とは、境界を越えることではなく——境界そのものを消去することだったのだと。

ざざざ……ざざざ……

足元から、見えない波紋が同心円状に広がっていく。

それは音の波紋であり、意識の波紋であり、存在の波紋でもあった。

ばり……ばり……ばり……

澪の周囲の空気が、何かを帯び始める。

それは電荷ではなく、もっと根源的な何か。存在の密度。意識の濃度。

ばり……ばり……

空間そのものが澪という存在に耐えかねて、微細な亀裂を生じさせている。

現実と非現実の間に、極小の稲妻が走る。

澪は意識を内向させる。

ぐにゃり……

思考の軌跡に従って、部屋の幾何学が変容していく。

直線は思索の複雑さに比例して曲線となり、角は感情の鋭さに応じて鈍角になったり鋭角になったりする。

ぐにゃり……ぐにゃり……

澪が歩くと、歩行という行為の概念そのものが歪む。

移動とは空間を通過することではなく、空間を自分に適合するよう書き換えることだと気づく。

ぺた……ぺた……ぺた……

足音だけが、変化の中の不変として響き続ける。

それは澪の最後の錨——人間であったことの証明だった。

しーん……

澪は音という現象そのものを——無意識に——消去する。

しーん……

完全な静寂。しかしそれは音の不在ではない。

音の可能性すべてが、一点に収束した状態。

この静寂の中で、澪は恐ろしいことに気づく。

自分の存在確認が、他者からの感覚的反応に依存していたことを。

音のない世界では、澪は自分の境界を見失う。

しーん……

恐慌。

しかし、その恐慌すら音を発することができない。

澪の内側で無声の叫びが渦巻く。

「戻してください」

心の中の祈り。

「音のない私は、私ではない」

そして——

どーん……

巨大な音が世界を揺らす。

澪の恐怖が、音の洪水となって現実に流れ込む。

すべての音が一度に回帰する。

ぽぽぽ……かちゃかちゃ……ひゅひゅ……ぴぴぴ……ざざざ……つつつ……ごごご……ばりばり……

音の渦が澪を包み込む。

彼女は理解する。

自分が音の支配者になったことを。

現実の創造者になったことを。

ささ……さら……ささ……さら……

澪はペンを握る。

しかし、ペンは紙を求めない。空気そのものが彼女の記録媒体となっている。

ささ……さら……

光の軌跡が、思考の軌跡を辿って空間に浮かび上がる。

「境界が四度目の変容を遂げる」

文字ではなく、概念が直接空間に刻まれていく。

「感受する者は、感受される世界そのものとなる」

「物質は意識に従い、意識は存在の深淵に溶ける」

澪の手は、もはや彼女の意志に従っていない。

より大きな意志——あるいは無意志——に導かれて、真理を書き続ける。

「危険という概念は、分離を前提とする」

「統合された意識に、危険は存在しない」

「残されるのは、変容のみ」

ぽ……ぽ……ぽ……

点滴の音が、永遠の伴奏のように戻ってくる。

澪は再び病院のベッドにいる。

しかし——この病室は記憶の中の病室ではない。

壁の色が微妙に違う。天井の高さが心持ち低い。窓から見える景色が、わずかに左にずれている。

澪が歩いた思考の軌跡が、空間に刻印されていた。

ぽ……ぽ……

田中が現れる。今度の彼は、輪郭だけの存在だった。

光の糸で編まれた人型。声だけが実在する幻影。

「あなたは閾値を越えました」

その声は、澪の記憶の中の田中の声でもあり、同時に誰でもない声でもあった。

「戻る道は、もはや存在しません」

澪は鏡を探す。

そこに映るのは——光の輪郭線だけの自分。

肉体という概念を手放した、純粋な知覚の束。

それでも澪は、まだ澪だった。

ぽ……ぽ……ぽ……

点滴の音だけが、変化の中の不変として響き続ける。

最後に残った時間の錨として。

ひら……ひら……ひら……

澪の意識が、蒲公英の綿毛のように拡散していく。

ひら……ひら……

個体という制約を離れ、空間の隅々まで浸透していく。

病室の壁を透過し、廊下を満たし、建物全体を包み込む。

そして、街へ。世界へ。

ひら……ひら……ひら……

無数の心の鼓動が、澪の拡散した意識に触れてくる。

眠る者の夢、目覚めた者の思考、子どもの純真、老人の諦観。

すべてが澪の中に流れ込み、澪もすべての中に流れ込んでいく。

境界という概念の最後の痕跡が、風に散る。

そして澪は理解する。

自分が求めていたものの正体を。

完全なる共感

一者と多者の、永遠の円環。

これが旅の終着点だった。

ささ……さら……ささ……さら……

誰の手でもない手が、誰の声でもない声で、最後の記録を刻む。

「私は一滴の水となって海に還った」

「しかし海もまた、私という一滴から成っている」

「終わりは始まりであり、始まりはすでに終わっていた」

音だけが残された世界で、新しい段階への扉が静かに開かれる。

こつ……こつ……こつ……

白い廊下の向こうから、すべての足音が一つになって響いてくる。

それは澪の足音であり、人類の足音であり、そして——

これから始まる者たちの足音でもあった。