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共感者 - 第三章:多重世界
tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作第三章:多重世界
り……り……り……
電話のベル音が、澪の睡眠を切り裂く。
午前4時17分。デジタル時計の赤い数字が、暗闇に浮かび上がる。
澪は受話器を取る。
「はい……」
「先生、助けてください」
声の主は田中雅彦だった。しかし彼の声は、電話線を通じてではなく、澪の内側から響いてくる。
り……り……り……
電話は鳴り続けている。澪はもう一度受話器を取る。
「北川先生ですか?」
今度は山田花子の声。
「私の中の田中が、暴れているんです」
澪は受話器を見つめる。電話線は壁から抜けていた。
り……り……り……
それでも音は止まらない。
かちゃ……かちゃ……かちゃ……
澪は病院へ向かう準備をする。鍵を回す音、ドアを開ける音、階段を降りる音。
すべての音が、夢の中の音響と重なって聞こえる。
ぺた……ぺた……ぺた……
廊下を歩く澪の足音。しかし、それが自分の足音なのか、夢の中の誰かの足音なのか、判別がつかない。
アパートの外に出ると、街の音が澪を包み込む。
ぶーん……ぶーん……
車のエンジン音。
ちゅん……ちゅん……
鳥のさえずり。
ざわ……ざわ……
風が葉を揺らす音。
しかし、これらの音の合間に——
こつ……こつ……こつ……
あの足音が混じっている。
が……た……が……た……
電車の中で、澪は周囲の乗客を観察する。
中年男性が新聞を読んでいる。かさ……かさ……
OLが化粧を直している。ぱち……ぱち……
学生がイヤホンで音楽を聴いている。しゃか……しゃか……
そして——
座席の向かいに、田中雅彦が座っている。
澪は瞬きをする。ぱち……
田中の姿が消える。
ぱち……
山田花子が座っている。
ぱち……
知らない老人が座っている。
ぱち……
また田中が現れる。
彼は澪を見つめて、無言で口を動かす。
「今日は三人目の患者が来ます」
音は聞こえない。しかし澪には彼の言葉が理解できる。
ち……ち……ち……
病院の時計が澪の到着を告げる。
午前8時45分。
澪はカウンセリング室に向かう。廊下で同僚とすれ違う。
「おはようございます、北川先生」
「おはようございます」
澪は応答するが、相手の顔が見えない。声だけが空中に浮かんでいる。
こつ……こつ……こつ……
自分の足音が、廊下に響く。しかし、その音は澪の歩行リズムと合っていない。
カウンセリング室に入ると、机の上に新しいファイルが置かれていた。
「佐藤健太、35歳、慢性不眠症……」
澪は椅子に座る。すり……
そして、ペンを握る。
ささ……さら……
しかし、ペンが紙に文字を刻む前に——
とん……とん……とん……
ドアがノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは30代半ばの男性だった。痩せ型で、目の下に深いクマ。田中雅彦と瓜二つの容貌。
「佐藤健太です」
彼の声は田中のものだった。
澪は混乱する。これは田中なのか、佐藤なのか。それとも——
「お座りください」
すり……すり……
佐藤が椅子に座る音。澪は彼の呼吸を感じ取る。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
田中と同じリズム。山田と同じパターン。
「症状についてお聞かせください」
「眠ることができないんです」佐藤の声が震える。「眠るたびに、他人の夢の中に迷い込んでしまう」
澪のペンが止まる。
「他人の夢?」
「はい。病院のカウンセラーの女性の夢に……」
ささ……さら……
澪の手が勝手に動いて、文字を書き始める。
「患者は共感者の夢に侵入している」
「夢の共有現象が発生」
「境界の消失は双方向的である」
ざ……ざ……ざ……
澪の頭蓋に、ホワイトノイズが流れ込む。
佐藤の顔が、田中の顔に変化していく。そして山田の顔にも。
ぱち……ぱち……ぱち……
澪が瞬きをするたび、相手の人格が入れ替わる。
「田中です」
ぱち……
「山田です」
ぱち……
「佐藤です」
ぱち……
「北川澪です」
澪は鏡を見る。そこに映っているのは、佐藤の顔だった。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
四つの呼吸が、一つのリズムに同調する。
四つの呼吸。四つの心拍。四つの瞬き。
しかし、それは本当に四つなのだろうか。
澪は自分の手を見つめる。その手は震えているが、震えているのは恐怖ではない。共鳴だった。
部屋の空気が、水のように重くなる。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
誰かの呼吸が、澪の肺を満たす。誰かの記憶が、澪の神経を駆け抜ける。
そして、遠くから——まるで水中から聞こえてくるような——声が響く。
「境界など、最初から存在しなかった」
その声は、田中のものでも山田のものでも佐藤のものでもない。
澪自身の声でもない。
「あなたは、ずっと一人だった」
澪は立ち上がろうとする。しかし、身体が複数あることに気づく。立ち上がる身体、座り続ける身体、振り返る身体、うつむく身体。
どれが本当の自分なのか、もはや判別できない。
つ……つ……つ……
つ……つ……つ……
時計の針が、複数の時間を同時に指している。
澪の瞳に映る時計の文字盤。そこには、重なり合う針が幾本も見える。過去の時間、未来の時間、存在しない時間。
つ……つ……つ……
しかし、刻まれているのは時間ではない。
澪の意識の断片だった。
ささ……さら……
誰かがペンを握っている。澪の手なのか、別の誰かの手なのか。
白い紙に、文字が浮かび上がってくる。しかし、澪は書いた覚えがない。
「記録者:不明」
「被験者:不明」
「症状:存在の曖昧性」
文字は、まるで水に溶ける墨のように、紙の上で形を変えていく。
そして、最後に残った言葉——
「誰が誰を治療しているのか」
しーん……
しーん……
静寂が、部屋を満たす。
しかし、それは音の不在ではない。
すべての音が、一つの点に収束した状態だった。
澪は気づく。
自分が探していたもの。自分が恐れていたもの。自分が逃れようとしていたもの。
それらはすべて、同じものだった。
自分自身。
こつ……こつ……こつ……
足音が聞こえる。
しかし、誰も歩いていない。
音だけが、空間を移動している。
澪は音を追って部屋を出る。廊下に出る。
白い廊下。果てしなく続く通路。
そこには、無数の扉がある。
すべての扉に、澪の名前が書かれている。
北川澪
北川澪
北川澪
澪は一つの扉を開ける。
そこには、もう一つの診察室があった。
もう一人の澪が、もう一人の患者と向き合っている。
こつ……こつ……こつ……
音は、扉の向こうから続いている。
澪は次の扉を開ける。また次の扉を開ける。
どの部屋にも、澪がいる。
患者として。カウンセラーとして。観察者として。被観察者として。
「どれが本当のあなたですか?」
声が、廊下に響く。
澪は振り返る。
そこには、誰もいない。
しかし、声は続く。
「それとも、すべてが本当のあなたですか?」
ぱち……
澪は目を開ける。
カウンセリング室。時計を見ると——
午前8時45分。
机の上に、佐藤健太のファイルが置かれている。
しかし、そのファイルには既に文字が書かれていた。澪の筆跡で。
「患者:佐藤健太、35歳、慢性不眠症」
「症状:他者の夢への侵入」
「診断:共感者症候群の二次感染」
「経過:患者は治療者の夢世界に取り込まれつつある」
澪は受付に電話をかける。
「佐藤健太さんの予約は?」
「本日の午前9時に予約が入っております」
電話を切る。澪の手が震えている。
今度こそ、患者が実在する。
しかし——
とん……とん……とん……
ドアがノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、澪自身だった。
白衣を着た、もう一人の北川澪。
「佐藤健太として、受診に来ました」
もう一人の澪が、澪の向かいに座る。
すり……すり……
「私の症状は」もう一人の澪が口を開く。「他人の夢に侵入してしまうことです」
澪は鏡を見る。そこには誰も映っていなかった。
ささ……さら……ささ……さら……
二本のペンが、二つの記録に同じ文字を刻む。
「共感者は増殖する」
「治療者と患者の境界が消失」
「現実の定義が崩壊」
その夜、澪は眠ることを恐れた。
しかし、彼女にはもう選択肢がなかった。
覚醒と睡眠の区別も、現実と夢の境界も、すでに存在しなかった。
こつ……こつ……こつ……
白い廊下で、無数の澪が歩いている。
カウンセラーとしての澪、患者としての澪、治療される澪、治療する澪。
「あなたは誰ですか?」
「あなたはどこにいますか?」
「あなたは存在していますか?」
澪の声が、廊下に木霊する。
しかし、答える者はいない。
ささ……さら……ささ……さら……
ペンの音だけが、崩壊した現実を記録し続ける。
澪の手が、無意識に文字を刻み続ける。
夢の中で、現実の中で、そのどちらでもない場所で。
ささ……さら……ささ……さら……
音だけが、真実を語り続けている。