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共感者 - 第二章:侵入
tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作第二章:侵入
ぴ……ぴ……ぴ……
目覚まし時計のアラーム音が、澪の意識を現実に引き戻す。
午前6時。いつもの時間。いつもの音。
しかし、澪の身体は昨夜の夢の重さを引きずっている。白い廊下の感触が、まだ足裏に残っている。
ぺた……ぺた……ぺた……
素足で冷たいフローリングを歩く音。澪は洗面所へ向かう。鏡に映る自分の顔を見つめる。
目の下のクマが、田中雅彦のそれと同じ色をしている。
しゃ……しゃ……しゃ……
シャワーの水音が浴室に響く。澪は温かい水流に身を委ねながら、昨夜の夢を反芻する。
あの廊下。あの足音。そして田中の後ろ姿。
しゃ……しゃ……しゃ……
水の音に混じって、別の音が聞こえてくる。
こつ……こつ……こつ……
澪は水を止める。浴室に静寂が戻る。
しかし、足音は続いている。
こつ……こつ……こつ……
「幻聴……」
澪は自分に言い聞かせる。HSPの症状として、聴覚過敏がストレス時に悪化することはよくある。
しかし、足音は止まらない。
か……ちゃ……か……ちゃ……
病院への通勤途中、澪は電車の車内で患者ファイルを整理していた。
田中雅彦のファイルは、依然として空白のままだった。しかし澪の記憶には、確かに彼との会話が刻まれている。
がた……がた……がた……
電車の振動が、澪の神経を刺激する。周囲の乗客の息遣い、衣擦れの音、携帯電話の着信音。すべてが彼女の感覚器官を直撃する。
そして、車内アナウンスの合間に——
こつ……こつ……こつ……
あの足音が混じっている。
澪は周囲を見回す。誰も歩いていない。電車は満員で、乗客は皆座席や吊り革につかまっている。
こつ……こつ……こつ……
音だけが、澪の耳に届き続ける。
ち……ち……ち……
病院の時計が、澪の到着を告げる。
午前8時30分。
澪はカウンセリング室に向かう。廊下の蛍光灯が、昨夜の夢の光景を想起させる。
ぺた……ぺた……ぺた……
自分の足音が、夢の中の音と重なる。
カウンセリング室に入ると、机の上に新しい患者ファイルが置かれていた。
「山田花子、28歳、解離性同一性障害……」
澪は首を振る。今日は田中雅彦の再診日のはずだった。
受付に確認の電話をかける。
「田中雅彦さんの予約は?」
「本日の予約表には、そのお名前はございませんが……」
澪は受話器を置く。混乱が彼女の思考を支配する。
昨日、確かに田中と会話をした。彼の声、呼吸、椅子に座る音。すべてが鮮明に記憶されている。
しかし、記録は何も残っていない。
とん……とん……とん……
ドアをノックする音。
「失礼します」
女性の声。澪は顔を上げる。
入ってきたのは、20代後半の女性だった。山田花子。
「お座りください」
澪は職業的な笑顔を浮かべる。しかし、彼女の内側では警戒信号が鳴り響いている。
すり……すり……すり……
山田が椅子に座る音。澪は彼女の呼吸のリズムを感じ取る。
不規則。浅い。そして——
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
田中雅彦と同じ呼吸パターン。
ささ……さら……ささ……さら……
澪はペンを握り、患者記録を開く。
「症状についてお聞かせください」
「私の中に、別の人格がいるんです」山田の声は細く、震えている。「夜になると、その人格が現れて……」
ささ……さら……
澪がペンを動かすたび、微細な摩擦音が空気を震わせる。
「どのような人格ですか?」
「男性です。30代くらいの……」
澪の手が止まる。
「その人格に、名前はありますか?」
山田の目が、澪を見つめる。その瞳の奥に、見覚えのある光が宿っている。
「田中雅彦、と名乗ります」
ざ……ざ……ざ……
澪の頭蓋に、ホワイトノイズが流れ込む。昨日と同じ現象。
ざ……ざ……ざ……
山田の声が、だんだん低くなっていく。
「先生、昨夜の夢はいかがでしたか?」
その声は、もはや山田のものではなかった。
田中雅彦の声だった。
澪は椅子から立ち上がろうとする。しかし、身体が動かない。
「夢の中で、長い時間お話ししましたね」
山田の口から出る田中の声。彼女の表情も、徐々に変化している。眉毛の角度、口元の形、瞬きの頻度。
ぱち……ぱち……ぱち……
澪が瞬きをするたび、山田の顔が田中に近づいていく。
ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……
二人の呼吸が同調する。
澪は自分の意識が、山田の中に流れ込んでいくのを感じる。境界が溶けていく。自分と他者の区別が曖昧になる。
これがHSPの極限状態なのか、それとも——
「先生の中にも、別の人格がいるんですね」
田中の声が、山田の唇から漏れる。
「夢の中でしか存在できない、澪という人格が」
澪は鏡を見る。そこに映っているのは、自分の顔ではなかった。
白い肌、黒い髪、そして空虚な目をした、知らない女性の顔。
ささ……さら……ささ……さら……
誰かがペンを動かしている。澪の手が勝手に動いて、患者記録に文字を刻んでいく。
「患者:北川澪、29歳、解離性同一性障害」
「主訴:現実と夢の境界が曖昧。他者の人格と自己の人格が混在」
「経過:共感能力の過剰により、患者の心理的境界が消失」
つ……つ……つ……
時計の秒針が、澪の残された理性を削っていく。
「先生」
山田の声が戻ってくる。いや、山田の声だったのか、田中の声だったのか、もはや判別できない。
「今夜も、夢でお会いしましょう」
澪は立ち上がる。部屋から出ようとする。
しかし、ドアが開かない。
がちゃ……がちゃ……がちゃ……
ドアノブを回す音が、空虚に響く。
「ここは夢の中です」
背後から声が聞こえる。振り返ると、山田の姿はない。
代わりに、田中雅彦が座っている。
「現実のあなたは、まだ夢の中にいます」
しーん……
完全な静寂。
澪の世界から、すべての音が消える。
彼女は自分がどこにいるのか、誰なのか、わからなくなる。
こつ……こつ……こつ……
遠くから足音が聞こえてくる。誰かが廊下を歩いている。
澪は音の方向へ向かう。
白い廊下。果てしなく続く通路。
そして、歩いている人物の後ろ姿。
こつ……こつ……こつ……
澪は気づく。
歩いているのは、自分自身だった。
ぱち……
澪は目を開ける。
カウンセリング室。午前9時。
机の上に、山田花子のファイルが置かれている。
しかし、そのファイルは空白だった。
澪は受付に電話をかける。
「山田花子さんは?」
「本日は来院されておりませんが……」
澪は患者記録を見る。
そこには、彼女の筆跡で書かれた文字があった。
「患者:北川澪、29歳、解離性同一性障害」
「症状:共感者は境界を失う」
「夢の中でしか存在できない者たちがいる」
「彼らは生者の夢を住処とする」
ど……くん……ど……くん……
澪の心拍が、鼓膜を叩く。
彼女は理解し始めている。
自分が患者なのか、カウンセラーなのか。
現実にいるのか、夢の中にいるのか。
ささ……さら……ささ……さら……
澪の手が勝手に動いて、新しい記録を書き始める。
「共感者の症状は進行性である」
「他者の夢に侵入する能力を獲得する」
「最終的に、現実と夢の区別が完全に消失する」
その夜、澪は眠ることを拒否した。
しかし午前3時、彼女の意識は闇に沈む。
こつ……こつ……こつ……
白い廊下が、彼女を待っている。
そして廊下の向こうで、新しい患者が澪を待っている。
今夜は、誰の夢に迷い込むのだろうか。