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共感者 - 第二章:侵入

tags: 小説, サイコロジカルホラー, 心理, サスペンス, 精神医学, 実験作
@神楽木アキ 25/07/2025

第二章:侵入

ぴ……ぴ……ぴ……

目覚まし時計のアラーム音が、澪の意識を現実に引き戻す。

午前6時。いつもの時間。いつもの音。

しかし、澪の身体は昨夜の夢の重さを引きずっている。白い廊下の感触が、まだ足裏に残っている。

ぺた……ぺた……ぺた……

素足で冷たいフローリングを歩く音。澪は洗面所へ向かう。鏡に映る自分の顔を見つめる。

目の下のクマが、田中雅彦のそれと同じ色をしている。

しゃ……しゃ……しゃ……

シャワーの水音が浴室に響く。澪は温かい水流に身を委ねながら、昨夜の夢を反芻する。

あの廊下。あの足音。そして田中の後ろ姿。

しゃ……しゃ……しゃ……

水の音に混じって、別の音が聞こえてくる。

こつ……こつ……こつ……

澪は水を止める。浴室に静寂が戻る。

しかし、足音は続いている。

こつ……こつ……こつ……

「幻聴……」

澪は自分に言い聞かせる。HSPの症状として、聴覚過敏がストレス時に悪化することはよくある。

しかし、足音は止まらない。

か……ちゃ……か……ちゃ……

病院への通勤途中、澪は電車の車内で患者ファイルを整理していた。

田中雅彦のファイルは、依然として空白のままだった。しかし澪の記憶には、確かに彼との会話が刻まれている。

がた……がた……がた……

電車の振動が、澪の神経を刺激する。周囲の乗客の息遣い、衣擦れの音、携帯電話の着信音。すべてが彼女の感覚器官を直撃する。

そして、車内アナウンスの合間に——

こつ……こつ……こつ……

あの足音が混じっている。

澪は周囲を見回す。誰も歩いていない。電車は満員で、乗客は皆座席や吊り革につかまっている。

こつ……こつ……こつ……

音だけが、澪の耳に届き続ける。

ち……ち……ち……

病院の時計が、澪の到着を告げる。

午前8時30分。

澪はカウンセリング室に向かう。廊下の蛍光灯が、昨夜の夢の光景を想起させる。

ぺた……ぺた……ぺた……

自分の足音が、夢の中の音と重なる。

カウンセリング室に入ると、机の上に新しい患者ファイルが置かれていた。

「山田花子、28歳、解離性同一性障害……」

澪は首を振る。今日は田中雅彦の再診日のはずだった。

受付に確認の電話をかける。

「田中雅彦さんの予約は?」

「本日の予約表には、そのお名前はございませんが……」

澪は受話器を置く。混乱が彼女の思考を支配する。

昨日、確かに田中と会話をした。彼の声、呼吸、椅子に座る音。すべてが鮮明に記憶されている。

しかし、記録は何も残っていない。

とん……とん……とん……

ドアをノックする音。

「失礼します」

女性の声。澪は顔を上げる。

入ってきたのは、20代後半の女性だった。山田花子。

「お座りください」

澪は職業的な笑顔を浮かべる。しかし、彼女の内側では警戒信号が鳴り響いている。

すり……すり……すり……

山田が椅子に座る音。澪は彼女の呼吸のリズムを感じ取る。

不規則。浅い。そして——

ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……

田中雅彦と同じ呼吸パターン。

ささ……さら……ささ……さら……

澪はペンを握り、患者記録を開く。

「症状についてお聞かせください」

「私の中に、別の人格がいるんです」山田の声は細く、震えている。「夜になると、その人格が現れて……」

ささ……さら……

澪がペンを動かすたび、微細な摩擦音が空気を震わせる。

「どのような人格ですか?」

「男性です。30代くらいの……」

澪の手が止まる。

「その人格に、名前はありますか?」

山田の目が、澪を見つめる。その瞳の奥に、見覚えのある光が宿っている。

「田中雅彦、と名乗ります」

ざ……ざ……ざ……

澪の頭蓋に、ホワイトノイズが流れ込む。昨日と同じ現象。

ざ……ざ……ざ……

山田の声が、だんだん低くなっていく。

「先生、昨夜の夢はいかがでしたか?」

その声は、もはや山田のものではなかった。

田中雅彦の声だった。

澪は椅子から立ち上がろうとする。しかし、身体が動かない。

「夢の中で、長い時間お話ししましたね」

山田の口から出る田中の声。彼女の表情も、徐々に変化している。眉毛の角度、口元の形、瞬きの頻度。

ぱち……ぱち……ぱち……

澪が瞬きをするたび、山田の顔が田中に近づいていく。

ひゅ……ふ……ひゅ……ふ……

二人の呼吸が同調する。

澪は自分の意識が、山田の中に流れ込んでいくのを感じる。境界が溶けていく。自分と他者の区別が曖昧になる。

これがHSPの極限状態なのか、それとも——

「先生の中にも、別の人格がいるんですね」

田中の声が、山田の唇から漏れる。

「夢の中でしか存在できない、澪という人格が」

澪は鏡を見る。そこに映っているのは、自分の顔ではなかった。

白い肌、黒い髪、そして空虚な目をした、知らない女性の顔。

ささ……さら……ささ……さら……

誰かがペンを動かしている。澪の手が勝手に動いて、患者記録に文字を刻んでいく。

「患者:北川澪、29歳、解離性同一性障害」

「主訴:現実と夢の境界が曖昧。他者の人格と自己の人格が混在」

「経過:共感能力の過剰により、患者の心理的境界が消失」

つ……つ……つ……

時計の秒針が、澪の残された理性を削っていく。

「先生」

山田の声が戻ってくる。いや、山田の声だったのか、田中の声だったのか、もはや判別できない。

「今夜も、夢でお会いしましょう」

澪は立ち上がる。部屋から出ようとする。

しかし、ドアが開かない。

がちゃ……がちゃ……がちゃ……

ドアノブを回す音が、空虚に響く。

「ここは夢の中です」

背後から声が聞こえる。振り返ると、山田の姿はない。

代わりに、田中雅彦が座っている。

「現実のあなたは、まだ夢の中にいます」

しーん……

完全な静寂。

澪の世界から、すべての音が消える。

彼女は自分がどこにいるのか、誰なのか、わからなくなる。

こつ……こつ……こつ……

遠くから足音が聞こえてくる。誰かが廊下を歩いている。

澪は音の方向へ向かう。

白い廊下。果てしなく続く通路。

そして、歩いている人物の後ろ姿。

こつ……こつ……こつ……

澪は気づく。

歩いているのは、自分自身だった。

ぱち……

澪は目を開ける。

カウンセリング室。午前9時。

机の上に、山田花子のファイルが置かれている。

しかし、そのファイルは空白だった。

澪は受付に電話をかける。

「山田花子さんは?」

「本日は来院されておりませんが……」

澪は患者記録を見る。

そこには、彼女の筆跡で書かれた文字があった。

「患者:北川澪、29歳、解離性同一性障害」

「症状:共感者は境界を失う」

「夢の中でしか存在できない者たちがいる」

「彼らは生者の夢を住処とする」

ど……くん……ど……くん……

澪の心拍が、鼓膜を叩く。

彼女は理解し始めている。

自分が患者なのか、カウンセラーなのか。

現実にいるのか、夢の中にいるのか。

ささ……さら……ささ……さら……

澪の手が勝手に動いて、新しい記録を書き始める。

「共感者の症状は進行性である」

「他者の夢に侵入する能力を獲得する」

「最終的に、現実と夢の区別が完全に消失する」

その夜、澪は眠ることを拒否した。

しかし午前3時、彼女の意識は闇に沈む。

こつ……こつ……こつ……

白い廊下が、彼女を待っている。

そして廊下の向こうで、新しい患者が澪を待っている。

今夜は、誰の夢に迷い込むのだろうか。