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青田買いの若旦那 - 第一章:青田の夢想

tags: 小説, 時代小説, 歴史, 江戸時代, 経済
@神楽木アキ 26/07/2025

第一章 青田の夢想


真の商人は先も立ち、我も立つことを思うなり
—石田梅岩『都鄙問答』より


一、堂島の朝霧

享保十九年、秋。朝霧が堂島川の水面を這うように流れる刻限に、播磨屋伊之助は米会所への石畳を踏みしめていた。二十二の若さで既に家業の一翼を担う身でありながら、彼の胸に宿るは父祖伝来の商法への静かなる反逆心であった。

「おはようさんどす、若旦那」

石橋のたもとで声をかけてきたのは、同じく米会所へ向かう近江屋の手代である。伊之助は軽く会釈を返しながら、その男の背に負われた帳面の厚みに目をやった。堅実な商いを重ねる老舗の証拠であろう。だが、それこそが伊之助には古臭く映るのであった。

堂島米会所の正面に立つと、既に朝一番の取引に備える商人たちの熱気が伝わってくる。ここは天下の台所と呼ばれる大坂にあって、なお格別の存在である。諸国の大名が米を換金する蔵屋敷が立ち並び、全国の米価がここで決まる。そして何より、世にも珍しき「帳合米」という、実際の米を動かさぬ取引が行われる場所なのだ。

伊之助の目は、会所の奥で繰り広げられる激しい手振りと怒号に釘付けになった。あれこそが、父源右衛門が「博打同然」と眉をひそめる先物取引である。だが伊之助には、それが新時代の商いの姿に見えて仕方がなかった。

二、相場の洗礼

「若い衆、初めてか?」

振り返ると、羽織に角帯といういでたちの中年男が立っていた。浅黒い顔に鋭い目つき、商人というより博徒のような風貌である。

「は、播磨屋の伊之助と申します」

「ほう、播磨屋の。あそこは堅い商いで有名だな。おれは宗兵衛という。この堂島では多少知られた相場師よ」

宗兵衛。その名は伊之助も耳にしたことがあった。短期間で巨利を得たという新興の相場師である。父は「あのような輩とは付き合うな」と常々申していたが、伊之助の好奇心は抑えきれなかった。

「相場師と申しますと?」

「見ていろ」

宗兵衛は伊之助の腕を掴むと、取引場の最前列へと押し進んだ。そこで伊之助が目にしたのは、想像を絶する光景であった。

「十月限り、百俵買い!」 「同じく五十俵売り!」 「相場、二両三分!」

会所の中央では、帳合米の取引が怒涛の如く繰り返されている。実際の米は一粒たりとも動かぬのに、膨大な量の売買が成立し、莫大な金子が動いているのだ。

「あれが青田買いというやつよ」宗兵衛が伊之助の耳元で囁いた。「まだ田に青々と稲が生えているうちに、秋の収穫米を売り買いするのだ。情報と算盤と度胸があれば、現物の米を一粒も持たずに大金を稼げる」

伊之助の心臓が激しく打った。これこそが、播磨屋を一気に押し上げる手段ではないか。父の代から三十年かけて築いた信用と資本を、もっと効率的に活用する道があるのではないか。

相場が急に動いた。何かの風説が流れたらしく、売り一色となって米価が急落する。阿鼻叫喚の中で、ある商人が青ざめて会所から逃げ出していく。一方で、涼しい顔で巨利を得た者もいる。

「恐ろしいものですな」伊之助は息を呑んだ。

「恐ろしいが、それゆえ面白い。播磨屋の若旦那なら、その恐ろしさを楽しみに変えることができるだろう」

宗兵衛の言葉に、伊之助は新たな可能性を感じ取った。播磨屋の確実な基盤があれば、このような相場に打って出ても破綻することはあるまい。むしろ、守りに徹している間に新興勢力に後れを取るのではないか。

三、父子の相克

その日の昼下がり、播磨屋の本店に戻った伊之助は、居ても立ってもいられなかった。帳場で算盤を弾く番頭の久七に声をかける。

「久七、播磨屋の手持ち資金はどれほどか?」

「左様でございますな。定期の取引分を除けば、およそ千両ほどは自由になりましょう」

千両。それだけあれば、相当な相場を張ることができる。伊之助の胸は躍った。

「若旦那、何か新しいお取引でも?」番頭が心配そうに尋ねる。

「いや、ちょっと考えていることがあってな」

その時、奥から父の源右衛門が現れた。五十二歳になる父は、白髪混じりながらも背筋をぴんと伸ばし、商人としての威厳を保っている。

「伊之助、今日は堂島へ行ったそうだな」

「はい、米会所の様子を見学して参りました」

「ふむ。で、どのような感想を持ったか?」

伊之助は一瞬迷ったが、正直に答えることにした。

「正直申しまして、驚きました。あのような取引があるとは。播磨屋も、もう少し積極的に取り組んでみてはいかがでしょうか」

源右衛門の表情が曇った。

「積極的に、とは?」

「帳合米の取引です。現物を動かさずとも利益を上げる手法があると聞きました。播磨屋の信用と資本があれば—」

「止めよ」

父の声は静かだったが、その底には怒りが感じられた。

「播磨屋は三代にわたって、誠実な現物取引で信用を築いてきた。それを博打のような相場で汚すわけにはいかぬ」

「しかし父上、時代は変わりつつあります。新しい手法を取り入れなければ—」

「新しければよいというものではない。商いの基本は信用だ。目先の利益に惑わされて、それを失ってはならぬ」

伊之助は反論したかったが、父の眼光の鋭さに圧倒された。しかし同時に、心の奥で反発心も湧き上がっていた。なぜ父は新しい可能性を頭から否定するのか。播磨屋をより大きく発展させる機会を、なぜ自ら閉ざしてしまうのか。

四、千代松の囁き

その夜、伊之助が自室で書物を読んでいると、そっと障子が開いた。現れたのは千代松である。十九歳になるこの丁稚は、他家から播磨屋に移ってきた身であるが、機敏で情報通なことで知られていた。

「若旦那、お疲れさまでございます」

「千代松か。遅い時間だな、何用だ?」

千代松は周囲を見回してから、声を潜めて言った。

「実は、堂島の件でございます。今日若旦那が宗兵衛はんとお話しされていたと聞きまして」

「知っているのか?」

「堂島に顔の利く者がおりますので。宗兵衛はんは確かに腕の立つ相場師でございます。ただ…」

「ただ?」

「やや強引な手法を使うと噂されております。情報を巧みに操り、相場を自分に有利に動かすとか」

伊之助は眉をひそめた。それは確かに褒められた話ではない。だが、同時に興味も湧いた。

「具体的には、どのような手法を?」

千代松はさらに声を落とした。

「例えば、諸国の凶作の噂を意図的に流したり、幕府の米政策について根拠のない憶測を広めたり。そうして相場を大きく動かし、その混乱の中で利益を得るのだそうです」

「なるほど…」

それは確かに問題のある手法だった。しかし、伊之助の心には別の思いもあった。宗兵衛のような人物と組めば、播磨屋の堅実な基盤を活かしつつ、より大きな利益を得ることができるのではないか。

「千代松、お前はどう思う?」

「私は、若旦那のお考えに従います。ただ…」

「ただ?」

「私も、いつかは独立して商いを始めたいと思っております。そのためには、新しい手法も学ばねばなりません。若旦那がもしそちらの道をお選びになるなら、私もお供いたします」

千代松の目には、野心の炎が宿っていた。身分の低い奉公人である彼にとって、伊之助の新しい挑戦は自らの可能性を広げる機会でもあったのだ。

五、新時代への憧憬

翌朝、伊之助は再び堂島を訪れた。今度は一人である。会所の喧噪を眺めながら、彼は自分なりの結論に達しつつあった。

父の言う通り、播磨屋の信用は大切だ。しかし、それを守るために現状に安住していては、いずれ時代に取り残されてしまう。必要なのは、伝統的な堅実さと新しい手法とのバランスではないか。

宗兵衛の手法に問題があることは千代松の話で理解した。だが、相場取引そのものが悪いわけではあるまい。要は、どのような姿勢で取り組むかの問題だろう。

「播磨屋の若旦那、また来られたか」

振り返ると、昨日の宗兵衛が立っていた。

「宗兵衛さん、お世話になります」

「どうだ、昨日の相場は?面白かっただろう」

「ええ、勉強になりました。それで、もしよろしければ、もう少し詳しくお教えいただけませんでしょうか?」

宗兵衛の目が光った。

「ほう、その気になったか。いいだろう。播磨屋のような老舗が本気になれば、面白いことができるかもしれん」

伊之助は一瞬、父の顔を思い浮かべた。しかし、すぐにその迷いを振り切った。新しい時代の商人として、自分なりの道を切り開いてみせる。播磨屋の名に恥じぬよう、そして父にも認めてもらえるような成果を上げてみせる。

その決意と共に、伊之助は宗兵衛と共に会所の奥へと向かった。彼の背中を、朝日が力強く照らしていた。