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Perfect Triangle - 第一章:完璧な三角形
tags: 小説, 現代小説, 恋愛, 心理学, 理論第一章:完璧な三角形
十月の午後、渋谷のスターバックスは平日にも関わらず人で溢れていた。窓際の席でMacBook Airを開きながら、私はまた恋愛記事の締切に追われていた。画面に映る空白のWordドキュメントが、まるで私を責めるように白く光っている。
「25歳女性が知っておくべき、理想の男性の見つけ方10選」
クライアントから送られてきたタイトルを見るたび、胃の奥がキリキリと痛む。フリーランスライターとして独立して三年。生活費を稼ぐために、こういう「量産型恋愛コンテンツ」を月に二十本は書かなければならない現実がある。大学の社会情報学科で学んだ知識も、ジェンダー論や社会心理学の理論も、結局はネットの片隅で消費される薄っぺらい記事のネタになってしまう。
キーボードに指を置いたまま、私は深いため息をついた。理想の男性?そもそも理想って何だろう。愛って何だろう。恋愛関係の本質について、私たちは本当に理解しているのだろうか。
「1. 年収600万円以上の安定した職業」
指が勝手に動いて、ありきたりな項目を打ち込む。書きながら自分でも嫌になる。こんな記事に何の意味があるというのだろう。
「ヒカリちゃん、また難しい顔してる」
突然声をかけられて、私は顔を上げた。隣の空いていた席に、大学時代の同級生である美咲が座っていた。手にはトールサイズのアイスコーヒー。秋だというのに冷たい飲み物を選ぶ彼女の性格は、学生時代から変わっていない。
「美咲?なんでここに?」
「この近くでクライアントとミーティングがあったの。偶然にも程があるよね」
彼女は外資系コンサルティング会社で働いていて、いつも忙しそうにしている。今日もネイビーのスーツを着こなし、完璧にセットされた髪型で、いかにもできるビジネスウーマンといった風貌だ。学生時代から美人だったが、社会人になってさらに洗練されている。
「ちょうどよかった。ちょっと聞きたいことがあるの」
私はMacBookの画面を少し彼女の方に向けた。白いドキュメントには、先ほど書いた「年収600万円以上」という一行だけが寂しく表示されている。
「恋愛記事書いてるんだけど、最近の恋愛って複雑すぎない?昔みたいに男女の一対一じゃなくて、もっと多様な形があるじゃない?でも、こういう記事だとそういう話は一切書けないし…」
美咲は私の画面を見て、苦笑いを浮かべた。
「あー、わかる。その手の記事、ネットに溢れてるよね。でもヒカリちゃんの悩み、よく分かる。うちの会社にも色んな人がいるよ。LGBTQの同僚もいるし、ポリアモリーやってる人もいる。時代変わったよね」
「ポリアモリー?」
私は初めて聞く単語に首を傾げた。美咲はアイスコーヒーのストローを口に含みながら、説明を続けた。
「複数の人と同時に恋愛関係を築くやつ。みんな合意の上で、隠すことなく。不倫とは全然違う概念。オープンで誠実な複数恋愛っていうのかな」
私は興味深そうに身を乗り出した。ライターとしての本能が働く。これは面白いトピックかもしれない。
「それって、どういう仕組みになってるの?嫉妬とかないの?人間の感情って、そんなに都合よくコントロールできるものなの?」
「人によるみたいだけど、理論的には可能らしいよ。実際、数学的にも興味深い研究があるって聞いたことがある」
「数学的?」私は眉をひそめた。「愛情を数式で表現するってこと?」
美咲はiPhoneを取り出し、素早く何かを検索し始めた。彼女の指先が画面を滑る様子を見ながら、私は心の奥で何かがざわめくのを感じていた。
「えーっと…あった。『Perfect Triangle Theory』。完璧な三角形理論」
彼女は画面を私に見せた。英語の論文のタイトルが表示されている。
“The Mathematical Beauty of Perfect Triangle Relationships: P(H,gx)・P(B,gy)・P(B,gy) = Optimal Emotional Equilibrium”
「なにこれ…」
私は思わず身を乗り出して、小さなiPhoneの画面を覗き込んだ。英語のタイトルの下に、著者名が複数並んでいる。心理学者と数学者、それに社会学者まで含まれた学際的な研究のようだった。
「海外の研究者たちが共同で発表した理論らしい。異性愛者1人と両性愛者2人による三角関係が、最も安定した感情的バランスを生み出すっていう仮説なの」
私の心臓が少し早く打った。これは面白い。単なるゴシップネタではなく、本格的な学術研究として恋愛関係を分析している。
「P(H,gx)がHetero、P(B,gy)がBisexual…gxとgyは生物学的性別?」
「そう。異性愛者1人と両性愛者2人。生物学的性別の組み合わせは色々あるけど、この構成だと理論上は嫉妬や独占欲が最小化されて、全員が満足できる関係を築けるんだって」
美咲の説明を聞きながら、私は無意識のうちに自分の胸に手を当てていた。心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。
「でも実際にそんな関係って成立するの?理論と現実は別物でしょ?」
「さあ?理論は理論だからね。でも興味深いでしょ?数式で愛を説明するなんて、ヒカリちゃんが好きそうなアプローチじゃない」
美咲は腕時計を見て、慌てたように立ち上がった。
「ごめん、私もう会議に戻らなきゃ。でもその論文、読んでみなよ。絶対面白いと思う。ヒカリちゃんだったら、きっと何か新しい視点を見つけられるはず」
彼女は足早に店を出て行った。私は一人残されて、手の中のiPhoneを見つめていた。
Perfect Triangle Theory…完璧な三角形。
私はすぐに自分のMacBookでその論文を検索した。幸い、オープンアクセスで公開されており、全文を読むことができた。
論文は思ったより本格的だった。心理学的データと数理モデルを組み合わせた研究で、確かに興味深い仮説が提示されている。五十ページを超える詳細な分析に、私は夢中になって読み進めた。
理論によると、Perfect Triangleには複数のパターンがあった。P(H,male) × P(B,female) × P(B,female)、P(H,female) × P(B,male) × P(B,male)、そして生物学的性別が混在するパターンなど。その中でも特に安定性が高いとされる組み合わせについて詳細な分析が行われていた。
異性愛者(H)は特定の生物学的性別に対する明確な指向を持ちながらも、両性愛者(B)の柔軟性によって関係の動的バランスが保たれる。両性愛者同士は互いの複雑な感情を理解し合いながら、異性愛者に対しては異なる次元での愛情を抱くことができる。結果として、三者の感情的ニーズが重複することなく満たされ、「完璧な三角形」が形成される…
私は論文を読みながら、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。それは単なる学術的興味ではない。もっと個人的で、もっと切実な何か。
自分自身の恋愛経験を振り返ってみる。
大学時代に付き合った先輩の田中さん。優しくて真面目な人だったが、なぜかキスをする時に違和感を覚えた。彼の唇が私の唇に触れる瞬間、まるで演技をしているような気分になった。
就職してから付き合った同い年の山田くん。イケメンで収入も良く、周りの友人たちには羨ましがられた。でも、彼とベッドを共にする時、私は天井を見つめながら「これが愛なのだろうか」と考えていた。
そして、女性に対して抱く複雑な感情。美咲のような友人といる時の方が、なぜかリラックスできて、心が開ける。彼女の笑顔を見ていると、男性と一緒にいる時とは全く違う種類の温かさを感じる。
学生時代、同じサークルにいた麻衣先輩のことを思い出す。彼女は一学年上で、とても美しく聡明な人だった。私は彼女と話をする時、いつも胸がドキドキしていた。それを「憧れ」だと思い込んでいたが、今思えば…
もしかして私は…
「完璧な三角形」
私は呟いて、すっかり冷めてしまったカフェラテを一口飲んだ。手が微かに震えているのに気づく。
スタバの店内は相変わらず賑やかで、隣のテーブルでは女子大生らしき二人組が就活の話をしている。窓の外では、渋谷の雑踏が流れていく。いつもと変わらない風景なのに、私の世界は論文を読む前とは全く違って見えていた。
もしこの理論が正しいなら、そして私が本当に女性に惹かれているなら…これまでの違和感の全てに説明がつくかもしれない。男性との関係で感じていた根本的な物足りなさ。女性といる時の安らぎと興奮。全てが繋がり始める。
私はiPhoneのメモアプリに新しいノートを作成した。タイトルは「Perfect Triangle Project」。
指先が震えながら、思いつくままに文字を打ち込んでいく。
「これは記事のネタを超えた、私自身の真実を見つける旅になるかもしれない。理論を現実に移す。完璧な三角形を実際に構築しながら、自分自身のセクシュアリティと向き合ってみる。」
私は興奮と不安が入り混じった気持ちで、新しいプロジェクトの計画を練り始めた。まずは該当する人物を見つけなければならない。P(H,gx)とP(B,gy)、そしてもう一人のP(B,gy)。
論文を読み返してみると、両性愛者の定義も興味深かった。単に男女両方に魅力を感じるだけでなく、感情的にも柔軟性を持ち、複数の関係を同時に維持することに対して開放的な人々。そして生物学的性別についても明確に定義されていることで、より科学的なアプローチが可能になっている。私自身のセクシュアリティについても、この厳密な定義を参考にもう一度考え直してみる必要があるかもしれない。
論文によれば、理想的な「Perfect Triangle」を形成するためには、参加者全員が自分の性的指向を正しく理解し、受け入れていることが前提条件だった。つまり、私はまず自分自身と向き合わなければならない。
窓の外の空は夕暮れ時の薄いオレンジ色に染まっていた。街行く人々は皆、それぞれの人生を歩んでいる。その中には、きっと私と同じような疑問や悩みを抱えている人もいるのだろう。
MacBookの画面に戻る。まだ書きかけの恋愛記事が待っていた。「理想の男性の見つけ方」。なんと皮肉な話だろう。
私は思い切って、記事のタイトルを変更した。
「現代の愛の形を考える:多様化する恋愛関係の新しい可能性」
クライアントは怒るかもしれない。でも、今の私には嘘を書くことができなかった。真実を追求すること。それが研究者としての、そしてライターとしての私の使命だと思う。
夜が深まり、店内の客足も少なくなってきた。私は論文をもう一度読み返しながら、これから始まる旅について考えていた。
理想の愛の形を追求する旅。
それは数学的美しさと人間の感情が交差する、未知の領域への冒険だった。そして同時に、27歳になった私が初めて自分自身の本当の姿と向き合う、勇気ある一歩でもあった。
【章末ノート】
Perfect Triangle = P(H, gx)・P(B, gy)・P(B, gy)
where:
P(H, gx) = Heterosexual person of biological gender gx
P(B, gy) = Bisexual person of biological gender gy
gx, gy ∈ {male, female}
gx/gy = biological gender (male/female)
次回:「出会いの三角形」